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2013年03月07日

あいさつ

あいさつ
中学校卒業式。

PTA会長になってしまって2年目、去年の祝辞は「忘年会のあいさつのようだった」と子どもから酷評されました。今年のテーマは・・・同僚だった先生が付属学校の校長になり、一昨年にはその格調高い祝辞が全国で話題になりましたが、それとはほど遠いです。そこでは言えなかったネタです。
 中学時代と言えば、部活顧問はやたらビンタを張ってきました。やられっぱなしでは腹立たしく、避けるようになりました。そうしたらどつかれ、ケリもはいってきました。今だったら暴力教師ですね。でもキャロルのLPを貸してくれたり、日曜日に遊びに連れて行ったりしてくれました。もっとひどいことをしてきた教師もいましたし、目をかけてくれた先生もいました。LPといえば、クイーンの自転車乗りポスターを友人から借りていたら、担任にみつかり、母親呼び出しでした。その担任といえば、仲間が花瓶を割ったのを弁償しろというので、みんなで空き缶を集めて、土曜日午後に教卓一面の大きさに高く積み上げて花瓶を作り、水を入れて、花も生けました。
 教卓といえば、給食で残った牛乳をおいておけばヨーグルトになるだろうと誰かがいいだして、教卓の下にいれておきました。しばらくすると腐敗臭が立ちこめてきました。徐々に慣れていったクラスのみんなはそれほど気にならなかったようですが、担任以外の教師はここで授業ができるかと寄りつかなくなりました。だれがどう処分したんでしょう。今にしてみれば担任は臭い教室もよく我慢していたものだと思います。
 当時は反抗期のまっただ中、学級委員とは別に、週替わり学級委員も作り、席替えも毎週やってました。今思えば、できるヤツもできないヤツもみんないっしょ、仲間はずれもつくらないという民主運動をしていたように思いますが、そのせいで優等生だった女子たちの成績がどんどん落ちていったようです。
 そして仲間とともにお弁当同好会を作っていました。給食の残りを有効利用しようと始めたのですが、そのうち掃除の時間に学校を抜け出して近所の川へいって、カワエビをつかまえて、授業後、理科実験室のバーナーで焼いて食べたりしていました。
 この仲間で、鉛筆細工もこりました。鉛筆をだるま状に加工してましたが、そのうち田県神社化していきました。美術の時間に粘土焼き物で笛を作る課題がありましたが、ちょうど『ガキデカ』ばやりで、作る笛は・・・
教室は、戦前の建物で、あるとき、床の一部が取り外せることがわかりました。探ってみると、昭和25年の新聞とわらじが出てきました。発掘の第一歩でした。
そういうのをいっしょにやっていた男と一緒に、ノートに仲間が拾ったり集めてきた週刊誌や新聞記事を張り付けて、「週刊ノブタ」と題して学年有志で回覧していました。そのうち見つかって没収されました。
この頃いろんなコンサートへ出かけていました。岐阜県の山奥へ野外コンサートに行ったときは、夏なのにあまりの寒さに雨ガッパまで着込んで寝る羽目になりました。そこで森の中からバンジョーを弾きながらでてきた人に衝撃を受けて、以来この手の音楽漬けになりました。でもお金はなく、レコードを1枚買うために、小遣いはたいたら交通費がでないので、この手の音楽店まで延々片道20キロを歩いて買いにいきました。途中でいろんな人に道を聞かれたのを覚えています。山の中からおじさんがひょっこりでてきて、名古屋の栄はどっちだねと聞かれ、山から見通した先にテレビ塔がみえたのであっちですと答えた記憶がありますが、いったい何だったんでしょう?
 こんな思い出が今に生きている・・・のかな?卒業生のみなさんの未来を心から祝福します。


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Posted by のらなか at 00:00│Comments(0)日常
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